牢獄の壁を破るには


「自分という牢獄」という話を以前に書いた。


人はみな「自分」という牢獄に住み、そこから出ようとして出られず苦しむのだと。


しかし、その牢獄もまた「構造」にすぎないのだと考えてみれば、そびえ立つ壁も堅固なものではなくなってくる。


自分という牢獄、それを形づくっているのは、自分という輪郭に違いない。


自分という概念は、そもそも近代ヨーロッパの個人主義が生み出した。
物質を最小単位に分割していけば原子や素粒子が現れ、それらの間に起きる相互の反応を見ることで世界が記述できる。それと同じように、社会の最小単位は「自分=個人」だ。社会とは個人の集合であり、個人の相互関係である、と。


だから「個性」が問題となり、「能力」が問題となる。親たちは子どもに能力をつけさせ、個性を磨かせようとする。
つまり、個人という最小単位がまずあって、それにいろんなパーツを足していくと一個の人間が完成する、そんな思考が働いている。


そのようにして、「自分=個人」という概念はぼくたち一人一人の周りに高い壁を巡らせた。細胞壁のように。
細胞壁と言えば、増田みず子の小説「シングルセル」(講談社学芸文庫)を、学生時代に読んだ。
化学処理でバラバラにした細胞を放っておくと、またくっついてしまう。一定条件下ではシングルセルのまま生き続けるが、やがて細胞壁が肥大化して窒息死してしまうのだという。
牢獄の壁とは、そういうものかも知れない。


「自分」を意識するかぎり、ぼくたちの眼前には高い壁がそびえ立つ。
その壁を崩そうとするのが他でもない自分自身であるかぎり、掘り崩すその横からまた新しい壁が立ち上がってくる。


そうではなく、「壁」は構造に過ぎず、スナップショットに過ぎないと考えてみよう。自分という実体などどこにもない、と。
あるのはただ、日々の思考や行動の総体、その傾向だけであり、その総体や傾向に「自分」という名前をつけて呼んでいるだけだ。


そうしてみれば、自分を変えることさえも、そんなに難しいことではないかもしれない。
必要なのは、「自分」という抽象的な全体を変えようとすることではなく、ただ日々の具体的な行動を変えることだけだから。


行動心理学の成果がこれを裏付けてくれる。
社会心理学者の山岸俊男氏によれば、日本人は何でも「心の問題」にしたがるが、「優しい人」や「傲慢な人」がいる訳ではない(その傾向くらいはあるかも知れないが、それは確定的なものではない)。ただ、「優しい」行動や「傲慢な」行動があるだけだ。


人間(個人)があって行動があるのではない。むしろ人間は行動の中でものを考え、行動の中で行動を選んでいく。
何でも口の中に入れて確かめようとする赤ん坊を見てみればいい。対象に働きかけることでぼくたちはそれを知り、それに感情を持ち、またそれに働きかけていく。
基点にあるのは、まず行動だと言ってもいい。


そのとき、高くそびえるかに見えた塀は突然消え失せて、辺りの風景は一変する。


ぼくたちは「可能性」の中にいる。何も確定的なものはなく、ただその瞬間瞬間の可能性だけがぼくたちを待っている。