個客代理人9--もう広告もプロモーションもいらない?


■個客代理人


たとえば、クルマを買うときぼくたちは新車ディーラーに行く。中古車でよければ中古車ディーラーに行くし、修理や整備が必要なら修理工場に持っていく。一時的にクルマが必要になればレンタカーを借りる。
それぞれの業態がみな(空港に入っているさまざまな会社と同様)独立してビジネスを営んでいるので、ぼくたちはそれぞれ異なる自分の事情に沿って、自分で最適なサービスをひとつひとつ見つけなければならない。
ぼくたちが求めているのは、実は「短距離の移動手段としてのクルマをどうするか」という問題に対するソリューションなのだが、誰もその問いの全体像を見通して応えようとはしてくれない。


新車の購入に限って言えば、もっと話は複雑になる。


トヨタのディーラーにはトヨタ車しか置いてない。日産のディーラーでは日産車しか買うことはできない。それだけではない。多くのメーカーはチャネル別販売をやめてしまったが、トヨタはレクサスも含めてまだ5つのチャネルを維持している。それぞれのチャネルは扱い車種が異なるので、トヨタのディーラーだからと言ってすべてのトヨタ車が置いてあるわけではない。
だから、1台の新車を買うだけでも、あのクルマはあちらのディーラー、このクルマはこちらのディーラーという具合に試乗して回り、めぼしいクルマを見つけたら今度はあちらのディーラーで値引交渉をし、こちらのディーラーからはもっと有利な条件を引き出し、という訳で延々つづく厄介なプロセスを踏まなければならない。
かつてのように、クルマを所有することがステイタスであり、所有すること自体に喜びがあった時代にはそれでもよかっただろう。その時代には、面倒な購入のプロセスも含めて「買う」という行為そのものが満足の一部を形成していた可能性もある。だが、所有することよりも使うことの方に重心が移ってくれば、購入(導入)のプロセスそのものには意味がなくなり、それを合理化したいというニーズが出てくるはずだ。


今ここに、自動車の購入にまつわる一切合切を代行してくれるサービスがあったとしたらどうだろうか。


ぼくたちはただ彼らにどんなクルマが欲しいのかを伝えればいい。もしくは、ぼくたちがクルマを必要としている状況を伝えるだけでもいい。
たとえば家族は何人か、主にどんな用途に使うか、大きな荷物を積むのか、走る距離は?乗る頻度はどれくらいか…。
個客代理人がそれらの情報を元に最適な車種を選び、値引価格も含めていくつかの候補を提示してくれる。ぼくたちは個客代理人のオフィスか自宅のソファに座って、リストから選択するだけでいい。あとは彼らが購入に関するすべての面倒を代行してくれるというわけだ。
車名やメーカーにはこだわらない、何であれ用途を満たすクルマが手に入ればそれでいいというユーザーにとっては、クルマの購入に関わる膨大な手間を軽減してくれるこのサービスは非常に有益ではないだろうか。


そのサービスを「個々のユーザーの便益を代理してくれる」という意味で、「個客代理人」と呼ぶことにしよう。
販売代理店がメーカーの販売行為を代理するように、これは顧客の購買行為を代理する「購買代理人」だ。そして、これはすべての顧客に均一化されたサービスを提供するのでなく、個々の顧客ごとに、それぞれのニーズに応じてカスタマイズされたサービスを提供するという意味で「個」客代理人なのだ。


これだけでも、メーカー中心に組み立てられた現在の自動車業界のサービスレベルを顧客のニーズに近づけるには十分だろう。また、「リーン・エンタープライズ」の観点から見ても、このサービスは「顧客にとっての最終的な価値を見通す」という要件を備えている。
しかし、所有価値よりも使用価値に重点を置いて考えるなら、決してサービスの対象を「購入」に限定する必要はない。
つまり、クルマを「購入」するための便宜を図るのではなく、クルマを「使用」するための最適な方法を提案する、という風にこのサービスを位置づけたらどうだろうか。新車や中古車の購入、レンタカーやカーリース、カーシェアリングの契約、それらはいずれもクルマを使用するための手段にすぎない。それらのニーズをすべて集約し、自動車に関するひとつの統合的なサービスにまとめあげてみたらどうだろうか(このアイデアはウォーマックとジョーンズの前掲書--「リーン・シンキング 改訂増補版」--に基づく)。


それは自動車ビジネスのかたちを大きく変えることになるだろう。

リーン・シンキング 改訂増補版

リーン・シンキング 改訂増補版

名前探しの放課後

名前探しの放課後(上) (講談社文庫)

名前探しの放課後(上) (講談社文庫)


名前探しの放課後(下) (講談社文庫)

名前探しの放課後(下) (講談社文庫)

「いつまでも読んでいたかった」とは、白河三兎「プールの底に眠る」の帯に寄せられた辻村深月の言葉だった。
それは確かに間違っていなかったが、彼女自身が書いたこの本もまた、ぼくにとっては「いつまでも読んでいたかった」本のひとつだ。

プールの底に眠る (講談社ノベルス)

プールの底に眠る (講談社ノベルス)


舞台となるのは、とある地方都市。
やがて自殺するはずの、だけどそれが誰だかはわからない同級生。
彼(女)を救うために集まった高校生たちの物語が、秋から冬へと移り変わる季節とともに進行していく。


「誰が」自殺するのか。
デビュー作「冷たい校舎の時は止まる」と同様、その「誰か」を探すことが彼らに課された役割となる。そしてその謎は、最後まで物語と読者を引っ張っていく。
しかし、これ以上ストーリーに触れればどうしてもネタバレは避けられないので、深入りすることはやめておこう。

冷たい校舎の時は止まる(上) (講談社文庫)

冷たい校舎の時は止まる(上) (講談社文庫)


冷たい校舎の時は止まる(下) (講談社文庫)

冷たい校舎の時は止まる(下) (講談社文庫)

それにしても、この物語を「いつまでも読んでいたい」と何よりも思わせるのは、辻村深月の筆致が伝える空気のリアルな肌触りだ。

エスカレーターが途切れ、ガラス張りの壁の向こうに空が広がる。冷たい空気が顔を撫でて、季節はもう冬になるのだということを(中略)痛感する。

そろそろ日の入りが近い。屋上には夕闇が近づいていた。等間隔に並んだ照明ライトが、そういえばもう点灯し始めている。

顔を上げると、屋上の空はすっかり夜の色に沈もうとしていた。
屋上駐車場を照らす背の高いライトからの光が明るく眩いせいで、さっき(中略)興奮して眺めていた霊峰の姿はもうどれだけ望んでも暗すぎて見えない。

主人公たちが幾度となく集まるジャスコの屋上。
見下ろす風景。
その風の匂い。
高校時代、同じ季節に同じ風の匂いを知っていたような気がする。

練習を終えて外に出ると、11月中旬の町は冬に備えている匂いがした。夏に比べて、空気の密度が低い。

肌寒い空気と、
レストランの明かり。
友だちの笑顔の温もり。


この物語はミステリーに分類されるのかもしれないが、そのコアは決して謎解きではないし、世界を救うことでもない。
大事なことは、いっしょにいること。
同じ時間を、世界を、同じ空気を共有すること。
そして何かに向かっていっしょに歩くこと。

人生にはイベントが必要なんだって。取り組むべき目標。こなすべき課題。−−簡単な気持ちで、バカみたいな楽しいことをたくさんしよう

その中から生まれてくるいろんなことがいちばん大事なことなんだよと、そのいろんなことを描き出すことでこの物語は教えてくれているような気がする。

個客代理人8--もう広告もプロモーションもいらない?


■所有価値から使用価値へ

カーシェアに節約の道 維持管理コストを軽く


会員同士が自動車を共有して自家用車のように使うカーシェアリング。節約志向が続く中で、低コストに着目した利用者が増えている。低燃費車の購入を促すエコカー補助金制度の終了もあり、今後も利用は拡大するとみられる。・・・(中略)・・・
「カーシェアリングは早朝や深夜でも自家用車感覚で利用できる」。こう話す東京都在住の女性会社員(28)は、3カ月前まで自家用車を所有していた。駐車場代など維持費用の負担の重さに耐えかねて手放し、自宅の近所にあるカーシェアリングを使い始めた。「利用料金にはガソリン代なども含まれており、使い勝手もよい」と満足げだ。
節約を目的にマイカーからカーシェアリングに切り替える人が増えている。交通エコロジー・モビリティ財団(東京・千代田)の調査によると、2010年1月時点のカーシェアリング会員数は1万6177人で、前年比2.5倍に拡大した。
需要拡大を受け車両数も同2.3倍の1300台に急増。その後も増加基調は続き、現時点で主な運営会社だけでも会員数、車両数とも既に1月時点を大幅に上回っている。

新車が売れない一方で、こうしたサービスが広がりつつある。日経MJ編集委員の石鍋仁美は「消費の対象がモノからサービスへとシフトしつつある」と言い、こうした状況を「消費のサービス化」と呼ぶ(「石鍋仁美のマーケティングの『非常識』」日経MJ 2009年7月10日)。


自動車に限らず、長らくビジネスの基本は「販売」だった。メーカーがレンタルやリースを扱ったとしても、事業としてはしょせん傍流に過ぎなかった場合が多いのではないだろうか。受け止める消費者の側でも、商品を「自分のものにしたい(=所有価値)」思いが、「使えればいい(=使用価値)」思いを上回る時代が長くつづいた。
だが、モノ余りの今、「使用価値」が「所有価値」を上回ろうとしている。持つことよりも使うことの方に重点が置かれるようになりつつある。


そうした流れの中では、新品と中古の境界線も曖昧になっていく。「使えればいい」と考えるなら、購入とレンタル・リースの間はもちろん、新品と中古との間にも本質的な違いはないからだ。石鍋によれば、最近ある有名な文芸評論家が蔵書の相当量を売却したという。ネット古書店が充実したおかげで「必要ならいつでも買えると気づいたから」だそうだ。


そこにひとつのビジネスチャンスがある。
「販売→所有」の関係は一回限りのものとなりがちだが、所有にこだわらないならその関係は継続的なものとなる可能性を秘めているからだ。

個客代理人7--もう広告もプロモーションもいらない?


■空の旅とリーン思考


たとえば、とウォーマックとジョーンズは言う。


休暇を海外で過ごすため、ぼくたちは2時間も前に空港に行き、チェックインカウンターに並ぶ。手荷物検査と身体チェックでゲートを何度もくぐり直しさせられ、出国審査で足止めを食い、搭乗ゲートの前でアナウンスを待つ。ようやく飛行機に乗ると、離陸が遅れるという(いつもの)アナウンスがあり、滑走路までの長いタキシングがあり、そして離陸の順番待ちの行列に加わる、という具合だ(飛行機が飛び立つまでの間にぼくたちは何度行列をつくるだろうか)。


航空会社に言わせればそれは仕方のないことだ。


できるだけたくさんの客を効率よく運ぶには、巨大なハブ空港どうしを大型ジェット機でつなぎ、そこから放射状に伸びるローカル線で地方へ行く客を振り分けていくのが最も合理的な方法だ(これを「ハブ&スポーク」方式という)。
このやり方でいくと、乗客は目的地まで行くのにかなりの回り道を強いられるケースも出てくる。それでも、とにかくハブ空港まで行かないことには目的地に向かう飛行機に乗れないとなれば、旅行客はそれに従う他はない。
この方式のもうひとつのネックは、世界中から旅客が集まってくるハブ空港が必然的に大混雑になるということだ。空港内は人間で溢れ、滑走路と上空は飛行機で溢れ返っているというのが、世界中のハブ空港の日常の風景だ(それも実際は特定の時刻に限っての話なのだが)。
それでも、空港内の混雑も滑走路や上空の混雑も自分たちの管理の範疇ではない、と航空会社はそう主張するだろう。私どもはただ、最も効率的な方法でお客様をお運びするだけですから、と。


そこにあるのは大量生産の工場の思考だ。


彼らは、できるだけ多くの旅客をできるだけ安いコストで輸送するという観点からスタートして、ビジネスを組み立てる。そのために彼らがとるのは、大量の旅客を一度に運べる大型ジェット機を大量に調達することであり、次にその高価な資産を最大活用できるよう飛行計画を立てることだ。ハブ&スポーク方式の採用は、そこから生まれてくる必然的な結果と言える。
だが、それは典型的なバッチ処理の発想ではないだろうか。工場の稼働率を最優先に、一度にできるだけ大量の部品を作り、ストックしておくやり方とそれは変わらない。
何のことはない、工場内のあちこちに積み上げられた部品在庫の代わりに、空港内でストックされ、バッチ処理で次の工程に流されているのは、他でもないぼくたち人間だったのだ。唯一異なるのはぼくたちが「自分で仕分けができる人間貨物」(「リーン・シンキング 改訂増補版」より)であり、「巨大な空港の中をさまよい次の飛行機便を探す」(「リーン・シンキング 改訂増補版」より)ことができるということくらいだろう。


すでに米国のサウスウェスト航空が、ハブ空港を使わず、ローカルな空港どうしをポイント・ツー・ポイントで結ぶビジネスで成功を収めて久しい。今では、世界中で多くの格安航空会社がこれに続いている。
彼らは大型ジェット機の代わりに比較的小型で安価な飛行機を導入している。それを単一の機種に揃えることで整備の工数を省くとともに、小規模なローカル空港を使い、搭乗プロセスを簡素化することで飛行機の到着から出発までの時間を大幅に短縮している。いずれも大量(バッチ)処理と待ち行列からの脱却だ。


しかしそれは第一歩にすぎない、とウォーマックとジョーンズは言う。


空の旅行には、航空会社以外にも実にたくさんの会社や人が関与している。旅行代理店、空港の警備会社、入出国審査官、管制官、空港の運営会社、飛行機の整備会社(航空会社からのアウトソーシング)、空港に乗り入れているバス会社やタクシー会社…。
これらの会社やそこで働く人々が、「リーン・エンタープライズ」の思考方法に沿って、旅客を主役とし、旅客にとっての旅行体験全体を見通してサービスを考えることはできないだろうか。あくまでも移動のための道具でしかない空港や飛行機といった個々の資産を前提に、それらを効率的に運用する視点からのみビジネスを構築するのではなく、1人1人の旅行客の視点から彼らの旅行全体を最適化する、その所要時間や快適性、安全性や料金を指標として、旅行というサービスの全体を「リーン」化することはできないだろうか。


たとえば「チェックイン係が一人で荷物チェック、関税・入出国手続きとチェックインをすべて処理して、旅行客がそのまま搭乗エリアか飛行機そのものに乗り込むようにできないだろうか・・・(到着地の)空港の入出国や関税当局は、(出発地の)空港で旅行者のチェックイン時点でパスポートを読み取ってもらって、旅行者が移動中の時間で誰を入国させるべきかを決めることはできないのだろうか」(「リーン・シンキング 改訂増補版」より)


問題は誰がそれを考えるかだ。そして誰がそれを実現できるもっとも近い位置にいるかだろう。

個客代理人6--もう広告もプロモーションもいらない?


■リーン・エンタープライズ


「リーンエンタープライズ」とは何か。


ウォーマックとジョーンズは、その核心を(価値の定義、価値の小川、流れ、プル、完全性という)5つの原則に整理している。詳細は原典をあたっていただきたいが、そのポイントを大胆に要約して2つにするなら、こうなるだろう。すなわち、第一は「顧客にとっての価値とは何か」を見通すこと、第二はその価値をよどみなく顧客に届けること。

「顧客にとっての価値を見通す」とは、メーカーが送り出す製品の仕様に沿って「価値」を定義するのではなく、あくまでも顧客が受け取る最終的なベネフィットの方から「価値」を定義するということだ。
それは多くの場合、製品がどういう機能を持っているかということよりも、顧客を取り巻く状況の中でその製品がどう位置付けられ、どう機能するか、ということを表す。
たとえば、パソコンの価値は必ずしもハードウェアのスペックの優劣ではないし、プリインストールされたソフトウェアの多寡でもない。顧客がどんな目的、どんな状況でパソコンを必要としていて、製品がそれらに(値段も含めて)どれだけ適切に応えられるかということがパソコンの価値でなくてはならない。スペック的にはきわめて貧弱なハードウェアしか持たず、ソフトウェアもほとんど入っていないネットブックwikipedia:ネットブック)が、この数年間で急速に市場を獲得したのはまさにそういうことだった。ハイスペックな代わり値段が高すぎるパソコンや、高機能な代わり大きすぎたり重すぎたりするパソコンは、時として価値を生まないのだ。

さらに言えば、パソコンの価値は決してパソコンという製品単体の問題にとどまらない。たとえば、注文から配送までの迅速さや初期設定サービスの有無、万一不具合が生じた場合のサポートのあり方、増設モジュールの入手しやすさなど、製品を取り巻く販売とサービスの全体が総合的な価値を形成する。このことが「リーン・エンタープライズ」の第二のポイントであって、要するに、顧客視点で定義された価値をまっすぐにその最短距離を通って顧客に届けるにはどうしたらいいか、それを考えろということだ。
実際には、ビジネスの複雑に絡み合った利害構造の中では、こうした視点は後回しにされるか、結局忘れ去られてしまうことが多い。たいていの場合、価値を顧客に届けるためのプロセスは、製品を生産するメーカー1社で成り立っているわけではない。そこには、販売会社や運送会社、部品供給会社、修理会社など複数の主体がそれぞれの利害を持って関与している。そして、その継ぎ目には必ずと言っていいほど「バッチ処理と待ち行列」が発生するのだ。それらがうまく繋がらないかぎり、総合的な価値を、顧客に向かってまっすぐに届けることはできない。


トヨタ生産方式に立ち戻って考えるならば、ひとつの工程・ひとつの工場だけが在庫の一掃に成功してもそれだけでは意味がない。工程と工程、工場と工場の繋ぎ目に在庫が生まれたのでは意味がないのだ。素材から最終組立てにいたるすべての工程・すべての工場から在庫が一掃されなければ最終的なコストは低減されないし(工場を出た瞬間、工場内の努力は充満するノイズに掻き消されてしまうだろう)、不良品を早期に発見するためのしくみづくりにもつながらない。
そのことは、工程や工場の都合で価値を考えるのでなく、常に総合的・全体的な観点から(つまり顧客の観点から)価値を捉えよという意味で「リーン・エンタープライズ」の第一のポイントにつながってくるし、価値を顧客に届けるために全工程・全工場を(そのつながりを)最適化せよという意味で、第二のポイントにつながってくる。


それでは、次に「リーン・エンタープライズ」の観点から現実の世界を眺めてみよう。そして、そのどこに「バッチ処理と待ち行列」がひそんでいて、それらをリーン思考で捉え直してみたときに何が起こるのかを見てみよう。

個客代理人5--もう広告もプロモーションもいらない?


■リーン思考の誕生


1980年代の後半、米国のナショナルプロジェクトで世界の自動車産業を研究したジェームズ・ウォーマックとダニエル・ジョーンズは、トヨタの工場の生産性の高さに着目した。彼らの研究はやがて「リーン(=贅肉を削ぎとった、ムダのない)」という概念にまとめられ(「The Machine that changed the World」1990年。邦訳は「リーン生産方式が、世界の自動車産業をこう変える」経済界、1990年)、その報告は自動車産業はもちろん、GEやボーイングをはじめとした1990年代の米国産業界に広く深く受け止められることとなった。

リーン生産方式が、世界の自動車産業をこう変える。―最強の日本車メーカーを欧米が追い越す日 (リュウセレクション)

リーン生産方式が、世界の自動車産業をこう変える。―最強の日本車メーカーを欧米が追い越す日 (リュウセレクション)

  • 作者: ジェームズ・P.ウォマック,ダニエル・T.ジョーンズ,ダニエルルース,沢田博
  • 出版社/メーカー: 経済界
  • 発売日: 1990/10
  • メディア: 単行本
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あらゆる大量生産の工場においては、「プロセス単位でまとめて処理する」というやり方が常識となっている。そこには、「部分最適を徹底すれば、それを寄せ集めることで全体最適になる」という考え方がある。
彼らは、工場の稼働率を上げるため一度になるべく大量に作ろうとする。作ったものはストックしておき、後でまとめて運び出す。だから部品工場では生産した部品の山があちこちに積まれ、組立工場では運び込まれた部品が山と積まれている。これが部分最適だ。
そこに積まれた部品の山(=在庫)をトヨタ生産方式では悪と考える。在庫を持てば管理が必要になる。管理は管理を呼び、在庫はやがて自己目的化してコストの固まりとなる。だから一度に大量に作るのではなく、必要なときに必要なものを必要なだけ作るのだと、トヨタ生産方式は考える。だから在庫はいらないのだと。
そんなことをしたら効率が悪いと、大量生産主義者は言うだろう。しかし、実際には個々の工場や個々の工程が「稼働率」という部分最適を追求するよりも、最初から全体を見渡して、いま必要なものを必要なだけ作っていった方がずっと効率的なのだ。実際、トヨタ生産方式はそのやり方できわめて高い生産性を実現した。


トヨタ生産方式が「在庫」と表現したものを、ウォーマックとジョーンズは「バッチ処理と待ち行列」という概念に置き換える。それはすなわち、「貯めておいて後でまとめて処理する」という考え方を指している。そして、その抽象化によって彼らはトヨタ生産方式を超える射程の長さを手に入れた。「在庫」で語れるのは製造工程とせいぜい流通までだが、「バッチ処理(と待ち行列)」は(あとで見るように)実は消費生活と経済活動のあらゆる局面に遍在しているからだ。
それらをすべて「リーン」に置き換えていくことはできるだろうか。その企てを後年彼らは再び「リーン・エンタープライズ」として提唱する(「Lean Thinking」1996年。邦訳は「ムダなし企業への挑戦」日経BP社、1997年。改題して「リーン・シンキング」2003年)。

リーン・シンキング 改訂増補版

リーン・シンキング 改訂増補版

それにしても何故、世界中で「バッチ処理」が行われ、それがいちばんいいやり方だと人々に信じられてきたのだろうか。ウォーマックとジョーンズは、トヨタ生産方式の生みの親である大野耐一のこんな言葉を紹介している。

(在庫の発想は)農業がはじまった時にバッチ(年1回の収穫)と待ち行列(穀物庫)によりそれまでの狩猟社会での1個ずつの処理が崩れたことにその起源がある(「リーン・シンキング」より)

なるほど、狩猟社会においては、狩った獲物はその都度消費される。毎日獲れるとは限らず、また貯蔵技術もない中ではそれ以外に方法はなかっただろう。しかし、農耕社会がはじまるに及んで状況は一変する。農業は作物ごとに収穫期が固定される典型的なバッチ作業だ。狩りと違って大量生産も可能だし、肉と比べて貯蔵も容易だ。
長い農耕の歴史を経るうちに、「人類は他の多数の『常識』としての幻想と共に、このバッチ思考も頭に埋め込まれて生まれてくる」(ウォーマックとジョーンズ)ようになったのかもしれない。そうだとすると、バッチ処理(と待ち行列)への信仰は(少なくとも農耕社会以降の人類にとって)根源的な思考方法と言える。そしてトヨタ生産方式は、人類の頭脳に埋め込まれたこの何千年という歴史を図らずもひっくり返したことになるだろう。

個客代理人4--もう広告もプロモーションもいらない?


■プロモーションはなぜ必要なのか


いずれの例でも、問われているのは「プロモーション」の意義だ。


そもそもぼくたちは何故プロモーションを必要としているのだろうか。
一般に、プロモーションの目的は「周知促進」と「需要喚起」だ。市場投入時にいかに商品を広く知らしめるか、また市場投入後一定期間たって売れ行きが落ち着いてきた商品や、そもそもあまり売れない商品をいかにして押し込むか、それがプロモーションの役割だ。


実は、そこには「客がどこにいるのかわからない」という前提がある。買ってくれる客はどこにいるのか。それがわからないからぼくたちは市場調査にコストをかける。だが、市場調査では元来現在のことしかわからない。まだ市場に出してもいない商品について聞かれたところで、それがほしいかどうか、実際に買うかどうかなど当の消費者にだってわかるはずがないからだ(かつて携帯電話会社がユーザー調査で「携帯電話にカメラをつけたらどうか」と問うたとき、欲しいと答えたユーザーは少数だったというのは有名な話だ)。結局ぼくたちは、暗闇に向かって投網をかけるようなものと知りながら、大金を投じて広告を出したり、店頭にキャンペーンガールを置いて販売促進を行う(「広告の半分がムダだということはわかっているが、どちらの半分がムダなのかがわからない」というのもまた有名な言葉だ)。


だが「客がどこにいるのかわからない」とは結局、まず商品があって次にそれをどう売るかを考える、という思考スタイルが必然的に生み出す問題ではないだろうか。


これはマーケティングの4P(wikipedia:マーケティングミックス)に忠実に沿ってはいる。まず商品がある。商品そのもの(Product)と価格(Price)だ。次に売り方がある。つまり流通戦略(Place)とプロモーション(Promotion)というわけだ。
もちろんそれぞれの過程で、ユーザーニーズを探るために市場調査を実施し、ユーザーニーズに応えるために商品企画を行い、ユーザーの心に届かせるために広告表現に工夫を凝らす。それらの一連の行為をぼくたちは「マーケットイン」と呼び、「コンシューマ・インサイト」と呼んでいるのだが、起点は今も「商品」なのだとすればそれは依然として「プロダクトアウト」ではないか。


考え方の順番を逆転させてみたらどうだろう。つまり、まず顧客との接点があり、実際の顧客がいる。そこから彼(女)がどんな商品を必要としているのかが逆方向に導き出されてくる。そんなビジネスは可能だろうか。