個客代理人3--もう広告もプロモーションもいらない?


■行列とコンビニ弁当


行列は、「客を待たせる」だけでなく、欠品の原因にもなりやすい。


およそ製造業と流通業にとって、ビジネスとは需要と供給の間に生じる不均衡との闘いと言っても過言ではない。需要の不確実性とどう闘い、それをどれだけ最小化できるかが経営者の腕の見せどころとなる。
キャンペーンによって意図的に行列をつくることは、その不確実性を逆に増幅することに外ならない。キャンペーンは確実に客を増やすが、ということはキャンペーンが終われば確実に客は減る。キャンペーンが需要を先食いすることによって、キャンペーン前よりも客が減ってしまうことだってあるだろう。その需要の落差は、自然に生まれる需要の落差よりずっと大きい。必然的に、キャンペーンの前後では需要の読み間違いが圧倒的に起きやすくなる。
需要の読み間違いは、在庫の増加か欠品というかたちで現れる。在庫の増加は売り手の経営を圧迫するが、欠品は売り手の機会損失であるだけでなく、ただちに顧客の不満足となる。セールによる集客を否定し、EDLP(エブリデイ・ロープライス)を打ち出したウォルマートは早くからそのことを理解していた。鈴木敏文が作り上げたセブンイレブンのビジネスフォーマットもまた同じ問題意識の上に構築されている。


セブンイレブンといえば、1年ほど前公正取引委員会が同社に対し、弁当の見切り(値引き)販売規制に関する排除命令を出した(2009年6月22日)。加盟店が売れ残りの弁当を値引して販売する行為に対しセブンイレブン本部が規制を行っているとし、これによって加盟店側が不当に不利益を被っているというのがその理由だ。
実は、コンビニの弁当が売れ残った場合、その廃棄ロスは加盟店が負担する契約になっている。これはオーナーにとっては大きな負担だ。さらには、本部が徴収するロイヤリティにはこの廃棄分まで含まれているという「ロスチャージ問題」もある。これらはそれ自体違法ではないものの、こうした会計方式を今後も維持するなら見切り販売規制は認められない、というのがこの時の排除命令の趣旨だった。
もっともここではそうした問題に深入りするつもりはない。
それよりも、このニュースを伝える報道の中で気になったのは、ある加盟店オーナーの「本部主導のキャンペーンで大量仕入れした時に売れ残ると負担が甚大」という声だ(日経MJ 2009年6月26日)。


セブンイレブンにはPOSシステムを活用した需要予測の優れたしくみがある。これをエリア内のイベント情報と組み合わせれば(運動会があるとおにぎりがどれくらい売れるとか)さらにきめ細かく注文量を検討できるようにもなっている。それらを活用し、日常の発注活動の中で仮説と検証を繰り返すことで需要の不確実性と闘い、需要予測の精度を練り上げていくというのが、鈴木敏文の打ち立てたセブンイレブンの強みであるはずだ。
だが、この加盟店オーナーの言葉が図らずも浮き彫りにしているのは、近年のコンビニ業界の競争激化を背景に、キャンペーンによる売上拡大が常套的になっているという事実だ。それによって人為的に作り出した需要の波が、本来精緻を誇るはずのセブンイレブンの需要予測の精度を下げる結果になっているという皮肉な現実だ。

個客代理人2--もう広告もプロモーションもいらない?


■行列のできるバーガーショップ


マックで行列と言えば、2008年暮れのクォーターパウンダー発売の際に、大阪でサクラを使って行列を演出したという事件があった(マクドナルドはこのとき自身が持つ一日当たり店舗売上の最高記録を更新したのだった)。


ネットの世論調査でこれに対する反応を見てみると(livedoor世論調査「マクドナルドの”アルバイト”動員、どう思う?」)、「不適切」が3分の2、「適切」が3分の1。問題はその理由だ。「不適切」とした人は「虚偽」「やらせ」を問題にし、「適切」とした人は「マーケティングの一手法として当然」「やらせもマーケティングのうち」と回答している。論点は「やらせ」や「虚偽」を許容するか、という点にあって、賛成論も反対論も「新商品に行列は当たり前」と捉えているようだ。


そこにあるのは「マーケティングの成功」=「行列ができること」という図式ではないか。そして、そこにないのは顧客本位の視点だ。顧客本位で考えるならば、客を待たせるということが成功の指標であるはずがないからだ。
子供向けのキャンペーンが行われるたび、週末のマックは大混雑となる。単純にハンバーガーを食べるためにマックを訪れる客にとっては迷惑以外の何ものでもない。問題はそこに業態としての問題意識があるかどうかではないだろうか。時間帯によって混雑が発生するのはある程度仕方がない。しかしその混雑を(キャンペーンによって)人為的に作り出すこと、さらには(サクラを使うことによって)混雑を意図的に増幅すること、そこに顧客視点がないということが問題なのだ。


「いかに客を待たせないか」という観点からオペレーションを組み立てることはできないのだろうか。それこそがそもそもファストフードという業態の出発点ではなかったのだろうか。
顧客志向で組み立てられたはずのプラットフォームを、いつのまにかオペレーションが裏切ってしまっているように見える。

個客代理人--もう広告もプロモーションもいらない?

■序章



2009年夏のある日。マックのドアを開けたらすごいことになっていた。


「マックでDS」企画の第一弾で、「まぼろしのポケモン」がマックの店舗でダウンロードできるというキャンペーンが、その週末からはじまっていたのだ。
家の近所のマックでかつてこれほどの行列ができているのは見たことがない。注文カウンターからドアのところまでぎっしりと人が詰まっている。そういうぼくも何のことはない同じ穴の狢(むじな)。列の前方に目をやると、一足先に来ていた息子がDSを抱えながらこちらに手を振っている。列をかきわけ息子が並んでいるところまで行くと、奴は入れ替わるように「2Fで試してくるから」と後も見ず駆け出して行った。


広告離れと言う。


2009年の初頭に広告業界をにぎわせたのは、リーマンショックとその後に来た世界同時不況のあおりを受け、2008年の広告市場が5年ぶりのマイナス成長になった(電通「日本の広告費」)というニュースだった。

しかし、実際にはTVや新聞などのマス広告費は2005年からずっと減少を続けていたのであり、リーマンショックを待つまでもなく広告業界には転機が訪れていたはずだった(その後、2009年の広告市場は2008年をさらに大きく下回り、マス広告費は5年連続での減少となった(同じく電通「日本の広告費」より))。

そうした中、広告界は今さらながらマスからSPへのシフトを鮮明にしつつある。だが、そんな風に状況を後から追いかけているだけではもはや失地を回復できないところまで、広告業界は追いこまれているのではないだろうか。ぼくたち広告関係者は、もっと根源的なところから自らの拠って立つビジネスとその存在価値について思いをめぐらすべきではないのだろうか。


その華やかさゆえか、広告宣伝は何やらマーケティングの主役であるかのように語られてきた。広告が時代を創り、引っ張っていくかのように持ち上げられたことさえあった。
しかし、ウェブの普及によって販売とプロモーションの境界線が消滅し、広告はその特権的な地位を失った。販売とプロモーションが別物であり、マス(大衆)に対してプロモーションをかける手法が限定されていたからこそ、広告は特権的地位に安住できたのだ。だが、ウェブ広告の登場がそれを突き崩し、さらにはクライアントの自社サイトが巨大なメディアと化した今、販売とプロモーションは連続的なものとなり、プロモーションはもはや広告代理店の専売特許ではなくなった。


そもそも広告とはプロモーションの一手法だが、プロモーション自体がマーケティングの一領域でしかない。問題は、プロモーションに重きを置いてきたマーケティングの在り方に変化が訪れているということであり、そこからマーケティングそのものが変容しようとしているということだ。そこから見れば、「マス広告の退潮」などということは表層的な事象に過ぎないし、「マスからSPへ」というスローガンも局所的な問題意識の表明でしかない。


この論考の主題は、「マーケティングにプロモーションは必要なのか」ということだ。その問いを、さまざまな事象を手掛かりにしながら掘り下げていきたい。そしてその旅は、さしあたってハンバーガーショップの行列というところからはじまる。

真夏の光の降りそそぐ場所で


明日の朝食に食べるリンゴを買いに、「5分で戻るわ」と出かけた彼女は、それっきり帰ってこなかった。


ジャンプ (光文社文庫)

ジャンプ (光文社文庫)


物語はそんな推理小説風の導入で幕を開ける。
やがて現れる彼女の姉だという人物とコンビを組んで、主人公による探偵ばりの探索行がはじまる。彼らはあちこちと聞き込みを行い、しだいに彼女の足取りが明らかになっていく、かに見える。
しかしある時から、一緒に彼女を探していたはずの(彼女の)姉や友人たちが彼を避けるようになる。問いかけても話をはぐらかされるばかり。ちょうどアイリッシュの「消えた花嫁」の主人公のように、彼以外の全員が答えを知っていて彼だけが蚊帳の外に置かれているみたいに。


そのまま事態は迷宮入りし、5年の月日が過ぎる。そして、答えはある日思いもかけないところでやってくる。思いもかけないかたちで。
それは、それまでの物語の意味を一瞬にして変えてしまう真実だった。まるでクリスティのミステリーで、犯人は語り手の主人公その人だった、とわかったときみたいに読者は思わずページを繰り、過去の記述を読み返さずにはいられないだろう。主人公とともに。


だが、そののち真実はしずかに心に着床しはじめる。
5年の歳月が、別の意味をもって彼の心に降りてくる。


それにしても、その答えを主人公は聞くべきだったのだろうか。
彼の人生を一変させてしまうその答えを。


「知らなければ、知ろうとしなければそれですんだのに」と人は思うかもしれない。
そう言えば、同じ作者の小説「Y」でも、主人公は何かに衝き動かされるように突き進んだ結果、意外な真相を知る。やはり彼にとっての世界がひっくり返るような事実を。
だが、いずれの主人公もたぶんそのことを後悔はしていない。彼らは真相を知り、その意味を悟ったとき、それでもそこから新しくはじまる世界を引き受ける決心をする。


Y (ハルキ文庫)

Y (ハルキ文庫)


彼らはきっと長い夢を見ていたのだ。
長い夢のあと人はふたたび目を醒まし、本当の人生を歩きはじめる。それは容赦ない真夏の光の降りそそぐ場所かもしれないが、それでも彼らはそこから歩きはじめる。


この物語の中でもっとも印象的なのは、小道具として登場するリンゴだ。
それはまるで主人公の分身であるかのように、物語の冒頭で彼の前から失踪し、物語の途中で消息を現したかと思うと、ラストシーンでまた忽然と現れる。
あたかも主人公のあてどない探索行の道標であるかのように、それは物語の要所要所に登場する。
しかし、まるで彼が探していた答えのように、それはずっと彼の近くにあったのだ。思いもかけないかたちで。幸福の青い鳥の物語のように、失われた彼のリンゴは、ずっと毎朝彼の冷蔵庫の中に入っていた。誰かの手によって。


物語の終幕はこんな風に描かれる。

蝉の声は途絶えることがない。何種類かの鳴き声が折り重なってひとつにまとまり鼓膜を震わせる。僕は片手にリンゴを握りしめたまま待った。真夏の光の降りそそぐ小さな駅の、人影のないプラットホームのベンチに腰かけて、いつやってくるともわからない上り電車を待ち続けた。

パソコンに貼るミニカレンダー


カレンダーが必要になるシチュエーションは多い。来週の金曜日は何日か、来月の1日は何曜日か・・・。


会議中であればシステム手帳にはさんであるダイアリーのページを繰る。歩いているときならケータイのスケジューラを開く。では、パソコンに向かっているときは?
選択肢はいくつかある。


たとえば、パソコン上で常時起動してあるアウトルックを開く。だがアウトルックのメイン画面はメールの受信トレイにしているので(たいていそうだと思う)、カレンダーを見るには1クリック必要だ。おまけにカレンダーのメイン画面は週5日形式になっているので来週以降のことを知りたいと思ったら、もう1クリック必要だ。
または、パソコンのデスクトップの背景に設定してある年間カレンダーを見るという方法もある。たくさんのプログラムを同時に開いて仕事をしていても、Winキー+Dキーをたたけば一度でデスクトップにアクセスできる。
だがこれも意外と面倒だ。カレンダーを必要としているのは、たとえばメールを打っているときやワードで文書を作成しているときが多い。一度デスクトップを出してしまったら、また元のプログラムの画面に戻らなければならない。カレンダーとにらめっこしながら文章を練っているときには、これは意外と使えない方法なのだ。



そんなわけでもう2年越しで愛用しているのが、このシール型のミニカレンダーだ。
パソコンのモニターの下に貼っておくと、いつでも見ることができる。別のプログラムを立ち上げる必要もなければ、今使っているプログラムを閉じる(最小化する)必要もない。文字通りカレンダーとにらめっこしながら文書の作成が続けられるのだ。


月別になっているので、場所もとらない。
何ヶ月も先の日付や曜日を知りたくなることはそうそうないので、2ヶ月先くらいまでのカレンダーだけを貼っておけば十分だ。月が変わったら、古い月をはがして順送りに左に移動させ、新しい月を右に追加すればいい(写真は10月中に撮ったものなので、12月までとなっている。またぼくは過去の日付を参照しなければならないことがしばしばあるので、過去も2ヶ月分貼ってある)。シールは何度でも貼ったりはがしたりできるようになっているので心配はいらない。

[rakuten:ginza-shimaya:10029461:detail]

入手は上のリンクから可能なので、興味のある方は一度試してみてはいかがだろうか。たしかロフトでも入手できたと思う。

世界を救うことは可能か


タイムスリップをめぐる出会いと別離。その物語はいつも読む者に切ない感情を呼び起こす。
それは、現代――交通手段と通信手段が著しく発達し、空間を隔てるということがもはや絶対的な障壁ではなくなった――において、今なお容易に(絶対に!?)越えることのできない隔たりこそが「時間」であるからだろうか。


佐藤正午の小説「Y」は、まさにそういう種類の物語だ。


Y (ハルキ文庫)

Y (ハルキ文庫)


ある日見知らない男から電話がかかってくる。
「おぼえていないかもしれないが」と男は言う。「ぼくはきみの親友だった」と。そして「ぼくの物語を読んでほしい」と懇願する。
編集者を生業にしている主人公は「売り込みだったらお断りだ」と答えるのだが、男は食い下がる。「読んでさえくれれば、ぼくがきみの親友だったという事実がわかるはずだから」と。
数日後、主人公は貸し金庫に預けられていた1枚のフロッピーディスクと500万円の現金を手に入れ、そして彼はフロッピーに収められていた男の物語を読みはじめる。しかし、そこから彼は、現実とも創作ともつかない不思議なストーリーの中に取り込まれてしまう‥。


それは、愛する人を救いたいと願った一人の男の物語だった。
愛する人を救いたいと願い、やがてその手段を手に入れた男は、しかしその結果新たに生み出される現実に裏切られていく。


誰かを救いたいと願うこと。それは意志だ。
しかし、何かを意志するということは、同時に何かを選択するということでもある。誰かを救おうとすると同時にすべての人を救うことはできない。
男は、自分が原因で自殺に追いやってしまった(と彼が信じている)女性を、その直接の原因となった事故から救おうと過去に戻る。
そこで男は愛する人を救い、親友を救い、さらに他の人々をも救おうとした。愛する人を救うことはできたが、親友も他の人々も救うことはできず、その結果として彼の人生は変わってしまう。


彼は選択することができなかったのだ。
愛するひとりの女性を救うために過去に戻った男は、しかしそれまでの十数年の人生の中で得た大切なものを捨てることができなかった。
生きるということは、ただひとつの愛を生きることではない。生きるとは、さまざまなレベルのいくつもの愛とともに生きるということだ。それは恋人であったり、家族であったり、友人であったりする。誰かを救うということ、すなわち意志するということは、それらの多様な愛をたったひとつの愛に集約するということなのだが、男にはそれができなかった。


もちろん、誰にだってそんなことはできない。それができるには人間を超えた存在でなければならない。



ソニー・ピクチャーズが放った映画「スパイダーマン」は娯楽映画だが、そこには現代におけるスーパーマンの苦悩が描かれている。
スパイダーマンは世界を悪の手から守ろうとし、そのために自分自身の恋人をあきらめようとする。それは彼の「選択」だ。
しかしどれほど多くの人の「希望」を救ったとしても、彼を最も愛するひとりの女性の「希望」を奪うのだとしたら、そこにどれだけの価値があるだろう。


それにそもそも「世界を救う」ことは可能なのか。
スパイダーマンであれバットマンであれ、あらゆる場所に遍在することはできず、すべての不幸に立ち会うことはできない。彼らはいつも誰かが不幸になった後に現れ、決してすべての人を救うことはないまま去っていく。
映画はそれで終わるかもしれないが、人生は続き、世界は終わらない。そしてまた別の不幸が人々を襲う。もしかしたら、スパイダーマンの手によって不幸から救い出された人が、まさにそのことによって別の不幸に追い込まれてしまうことだってあるだろう。中国の古い諺が示すとおりに。


世界を救うこと。誰かを救うこと。そのいずれもが結局は人間の思い上がりでしかないのかもしれない。
しかし、何かを「救える」と信じる人はそう考えない。「Y」の男はまさにそういう男であり、だから自分の意志が予想外の現実を生んだことを知ったとき、彼はもう一度やり直すことを選択する。
そうして彼は永遠に循環する時間の輪の中に閉じ込められていくのだ。


それにしても、この物語を読み終えたとき、そこにはなにか不思議な読後感が残る。
男に関するかぎり救いのない物語であるにも関わらず、また主人公にとっては家庭の崩壊という重い現実を背景に置いたストーリーであるにも関わらず、それはどこか気持ちのいい読後感だ。
それは、男が恋人や友人や家族を愛し、その関係をたいせつにしようとしたその愛し方が男以外の人々に伝わっていくからだろうか。佐藤正午作品の例にもれずどこか投げやりで、グズグズな人生を送っている主人公も、いくつかのあたらしい関係を手掛かりにして最後にようやく前を向いて歩きだす、その結末が希望を感じさせるからだろうか。


男が書き残していった物語、それが真実だったのかどうかは最後までわからない。それでも、そこに描かれた別の時間軸の物語を読み、そこに描かれたいくつかの愛の物語を体験することによって、現在の(そして唯一の)この時間軸での人生にも可能性があることに彼は気づく。そして、そこで出会った人々が実はかけがえのない人々であることに気づく。
それは、時間という超えることのできない壁を意識するとき、なおさら強くぼくたちの意識に訴えかけてくるのだ。だからこそ彼は、現在のこの人生を引き受けてあらためて生きていこうと考えるのだろう。


そうしてみると、去っていった男はやはり(自らは救われないまま)親友を救ったのかもしれない。もちろんそれは意志ではなく、したがって選択でもない。彼が人々を愛したその愛し方を通じて、彼は親友を救ったのだ。


※タイムスリップ小説の定番と言えば・・・(紹介文はこちら

リプレイ (新潮文庫)

リプレイ (新潮文庫)

砂漠に降る雨


(デザートガーデンズホテルの中庭)

1. ランドリールーム


夕暮れのエアーズロック。
ホテルのフロントで教えてもらったランドリールームは、ぼくたちが泊まっている部屋からずいぶん離れたところにあった。
敷地の中に点在する宿泊棟の間を抜けてランドリールームの方に歩いていくと、芝生の上に何かいる。
夕闇に目を凝らしてみると、ウサギだ。


何でオーストラリアにウサギがいるのかと思ったら、(あとでネットで検索したところ)その昔ヨーロッパ人が持ち込んだウサギが繁殖し、オーストラリア中に広がったものらしい(おかげで多くの動物種が絶滅したらしい。ウサギの繁殖力や恐るべし)。
写真を撮ろうにも、辺りはもう暗くなりかけていてケータイのカメラではとても捉えきれない。
少しでも明るい方に追いやろうと、小学生の息子が後ろから回りこんで行く。
ウサギは馴れているのか危険を感じないのか逃げる気配もない。ひょこっと2、3歩動いてうずくまる。息子が迫るとまたひょこっと動いてうずくまる。しかし、なかなか思うように明るいところには出て行ってくれない。
業を煮やした息子がさらに踏み込むと、さすがに今度は遠くまで逃げて行ったが、逃げた先もまた潅木の陰。どうやらウサギは陰になる場所を選んで移動しているようだ。


名残り惜しそうな息子を促し、ぼくたちはふたたびランドリールームに向かう。
もうだいぶ暗くなった小径を歩いていくと、後ろから年配の白人の夫婦(体格は全然ぼくたちより大きい)が追いついてきた。
「洗濯に行くのか(もちろん英語で)」と聞くので、「そうだ」と答えると「こっちだよ」と右手に入っていく。


ランドリールームには洗濯機らしきものが5台くらい置いてあった。
「これとこれが洗濯機。こっちが乾燥機。洗濯はこれをこうしてこうやって回すとセットできる。わかるな。そして金は要らない(笑)」
テキパキと教えてくれると、二人は乾燥機から中のものを取り出し「じゃあな。バイ」と出て行った。

2. アウトバック・パイオニア


教えられた通り洗濯をセットし終わったぼくたちは、夕食を食べに出ることにした。
リゾート内を巡回しているバスに乗って、行く先はリゾート内の別のホテル「アウトバック・パイオニア」だ。ここには新婚旅行で来たときに泊まったことがある(当時は別の名前だったが)。


砂漠の夜は真っ暗だ。
バスはいくつかのホテルを経由していくが、真っ暗闇の中に点々とホテルが存在し、そこだけが明るく人の気配がある。
そう言えば、新婚旅行のときはリゾート内のショッピングセンターで夕食をとり、アウトバック・パイオニアまで砂漠を突っ切って歩いて帰った。真っ暗な中(怖いので)手をつないで、星空と方向感覚だけを頼りに歩いたのだった。


やがて着いたアウトバック・パイオニアは昔とずいぶん変わった印象だった(それはそうだろう。もう17年もたってるんだから^^;)。
中庭のフードコートでは、生バンドが演奏をしていた。ぼくたちはピザとビールを頼み(子どもたちはコーラ)、テーブルについて演奏を聴きながら食べた。


フードコートの一角、ステージに近いところにビリヤード台があった。
ちょうどピザを食べ終わった頃、先客がいなくなったのでぼくたちも久しぶりにチャレンジすることにした。11歳の息子に「やってみるか」と聞くとまんざらでもなさそうだ。
息子に教えながら妻と3人(娘は興味がなさそうだった)でゲームをはじめる。見よう見まねで息子がキューをかまえると、そばでタバコを吸いながら眺めていた男が(英語で)かまえ方をアドバイスしてくれた。


褐色の肌をして髭を生やした、ちょっと雰囲気のある男だった。
男は、その後も息子がキューを持つたびアドバイスしてくれた。しかし、はじめてビリヤードをやる息子がそうそう的球に当てられるはずがなく、また10年ぶりくらいにキューを握るぼくたちもそうそうすぐに勘を取り戻せるわけがなく、ゲームは長い砂漠の夜と同じくなかなか終わる気配がなかった。
いいかげん次の客たちが待っているようだったので、最後のナインボールは(そこだけ上手に)ぼくが仕留めて終わりにした。
去り間際、男の方に手をあげてあいさつすると、彼はうなづいて親指をたててみせた。

3. 砂漠に降る雨


ホテルに戻り、ランドリールームで洗濯物を回収する。帰り道、パラパラと雨が降ってきた。
部屋に帰り着くと、やがてそれはシャワーのように降り出した。
砂漠の真ん中の雨。
それにしても、ホテルで洗濯をしようと思わなければウサギを見ることもなかったし、日本ではゲームばかりやっている息子がウサギを追いかける姿も見られなかった。洗濯機の使い方を教えてくれる陽気な夫婦にも出会えなかった。
そして、夕食に出かけフードコートでビリヤードをやらなければ、昔ビリヤードをやっていた親切な男にも出会えなかった。


砂漠の雨も部屋の中で音を聞くだけだっただろう。



(デザートガーデンズホテルからショッピングセンターを望む)