続・オフコースの時代


つくづく音楽とは儚いものだと思う。


通り過ぎてしまえば、後には何も残らない。それで世界を変えられるわけでもない。


最近三谷幸喜のエッセイを立て続けに4冊読んだのだが、音楽のそういう性質はコメディに似ているかもしれない。
終わってしまえば後には何も残らない。世界を変えることもない。それでも、生きる元気のようなものを観る者(聴く者)に残していく。


小田和正は同窓会でこう言われたという。
「お前はいいよなぁ」


そんな言い方ないだろうとも思うが、そこにはいくばくか真実を突いた要素があることも間違いがない。
音楽もコメディも、現実世界にコミットしない。現実世界で泥にまみれて生きている者からすれば、それは憧れであると同時に妬みの対象でもある。それらは現実にコミットしないことによって愛され、同時にそのことによって妬まれ、そして世界の役には立たない。


音楽やコメディをやっている人間は、そんな足元の不確かさとの闘いを常に強いられている。
それは彼らの宿命とも言えるだろう。


音楽家であろうとするなら、その宿命に耐えねばならないと思う。
もし彼がラブソングを作り続けることの不確かさに耐えられず、同世代に呼びかける歌を作りはじめたのなら、ぼくはそれに賛同できない。もしそれで世界を変えようと、そうすることで確かさを得ようとしているのなら、その先にはもっと不確かな状況が待っているだけだろうと思う。
そうではなく、世界に何も求めることなく、ただ自分の歌いたい歌を歌っていくのだというなら、それはそれでひとつの現実的な生き方だと思う。


このことは、もっと深く考えてみることもできる。
これは、本当は音楽家とコメディ作家だけの問題ではないのだ。生きることそのものが、本当はとても不確かなことだから。
誰にしても世界を変えることはできない。現実世界の中で這い回っているぼくたちは、本当は現実世界の表面をなぞっているに過ぎないことに気づいていない。


いや、そう言い切ってしまうこともまた間違いだろう。
世界は堅固な城壁ではない。それは柳の木のように風になびき、ぼくたちの働きかけに対して柔軟に形を変える。だが次の瞬間には、もう元の姿に戻っている。
そうでなければ、全然違う何かに形を変えていたりする。
誰も世界を思い通りに操ることはできない。


そういう不確かな現実の中で、絶対的なものを求めることなく生きるということ。それは誰にとっても困難な事業であるに違いない。


そういう意味では、ぼくたちはみんな戦友だ。