論理と共感と反戦歌


オフコースのもっと前には、さだまさしを聴いていた頃があった(笑)。


小田和正の話で思い出したのだが、去年の大晦日、紅白でひさしぶりにさだまさしの姿を見た。
けっこうおっさんになったなぁと(自分のことを棚に上げて)思ったのだが、その時彼が歌った歌はぼくを愕然とさせた。


「僕達のための平和と 世の中の平和とが少しずつずれ始めている …独裁者が倒されたというのに 民衆が傷つけ合う平和とは一体何だろう 人々はもう気づいている 裸の王様に大人達は本当の事が言えない いつの間にか大人達と子供達とは 平和な戦場で殺しあうようになってしまった 尤も僕らはやがて自分の子供を 戦場に送る契約をしたのだから同じこと」


たぶん彼が変わったわけではない。
こちらが左から右へと立ち位置を変えただけなのだろうが、この歌はちょっとないだろうと思った。


少なくとも、真面目にものを考えようとするなら、これは歌にすべきテーマではない。少なくとも、音楽を愛する者のひとりであるなら、こんなことをメロディに乗せるべきではない。
この歌によってさだまさしは、まともに議論をしたいと考えている者と、音楽を愛する者の両方の気持ちを踏みにじっていることになる。


この歌の歌詞が言おうとしていることは、重要な論点を含んでいる。少なくともそれは、誰もが無条件に賛同できる内容ではない。
もし、そうした内容を主張したいと思うなら、そう思う者は「議論」としてそれを立ち上げるべきなのだ。
そして音楽は議論のための道具ではない。


愛や平和を抽象的に歌うのは、まだいい。
誰も抽象的な愛や平和には異論がなく、それ故それらの歌はどこまでも無害であるからだ。
しかし、さだまさしのこの歌は暴力的ですらある。
音楽を聴く時、人は無防備だ。誰も議論をするために音楽を聴いたりはしない。
にも関わらず、この歌は心地よい旋律に乗せて特定の思想を押し付けてくる。
心地よい旋律に乗せて語られることによって、議論は封じ込められてしまう。共感というステージに否応なく引っ張りこまれることによって、反論のチャンスは永遠に奪われてしまう。


ある意味で彼はこう言っているに等しい。自分の歌に共感しない奴は非国民だ、と。


これは歌ではない。これは音楽ではない。そしてこれは思考の正しい表現ではない。